昭和48年02月04日 朝の御理解



 御理解 第59節
 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。」

 寒修行も愈々今日をもって、盛会裏に終わらせて頂く事が出来ました。お互い一月の間に修行をさせて頂いて、どんなことが分からせて貰い、どんなことが身についただろうか。また一ヶ月の間に、どれほどおかげを頂いただろうか。ちょうど今日はそんな感じがしますね。この五十九節を頂きました。習うたことを覚えておって、そしてあの人のおかげでと、おかげを頂けばこの寒修行中に、こういう信心が分からせて頂いたと言うて、愈々これからの信心に力が入る。
 お徳を受けていけば、神様も喜んで下さる。金光大神も喜んで下さる。もちろん、氏子もの喜びじゃと。本当にね修行したなら、修行した甲斐がなからなけりゃいけん。そこへどれだけのものが身についただろうか。これは寒修行というだけではないのですけれどもお互い日々、信心の稽古をさせて頂いて、こういうおかげも頂いた。こういう信心も頂いた。といよいよ、そこからおかげの受けていかれる道がつくと言う事が、神も喜び氏子も喜び、金光大神も喜びと言う事になるのです。
 振り返ってみてどう言う様な事が、果たして身についただろうか。私は今朝方から、お夢を頂いた。丁度三時に目覚ましのおかげを頂いたから、まぁ十五分あるなと思うて、休ませて貰った。そして起こして頂いたのが、三時十五分でしたから、ちょうど十五分間は又ぐっすり寝てるわけです。その十五分間の間にそれはそれは、長い長いお夢を頂いた。河南省に邯鄲という所があります。支那の邯鄲の夢枕と言う事、あれがあるでしょう。邯鄲という所があるんです、小さい町です。
 そこで或る人が自分の一生のことを、ちょっとお酒を飲んで酔って寝とる間に、夢を見たと言うのです。簡単なはぁこんな今年は、自分の夢を時間で知ったことは今日が初めてでしたけれどね、ちょうど三時に目覚ましのおかげを頂いた。枕時計を見てるんです。そして、そのままもう覚えんで、又十五分間休ませて貰うた。十五分間休ませて頂いて、起きた時には、どういうことで目覚ましのおかげを頂いたか。誰かもうこの世の人とも思われない、もう何とも言えん、それこそ涼しい声です。
 で何か分からんけれども、耳元で誰かが囁いたので目が覚めた。同時に口元に誰かが一滴、お水のようなものを、飲み込む程しのことではない。ただ自分の唇にこうやって湿すだけ位の水滴を、ちょっと落として下さって、あまりにそれがひやぁっとして、目が覚めた。そうしたらとっても爽快です。もうそれこそ心気爽快と言う、気も心も体も爽快な事だ。そして頂いておる夢の事を思うて、愈々有難うならせて貰うた。
 今日は寒修行の終わりに当たって、こういうお夢を頂いたが、どう言う様な事であろうかと思わせて頂いた。御神前にそのことをお礼を申させて頂いておりましたら。今でもおりますでしょうか。昔二枚目俳優に高田実という人がおりました。その高田実を頂きます。高田と言う、高い田の実ると書いてある。二三日前から頂きましたご理解の中に、森部の高山さんの頂かれたお夢をお話いたしましたですね。
 下にもある田圃もありゃ畑も沢山ある。そこからこう山になってる。その山は切り立った山である。その切り立ったような山。とてもこんな山に登れようとも思われないのだけれども、自分が登っておるところのお夢である。そこには足をかける所があり、手をかける所がある。いわゆる手がかり足がかりがあるのである。上から蔓のようなものが大きく下がって来ておる。それを掴むと下の方に岩が出ておって、それに足をこうもっていけれる。ちょうどもう楽に登っていけれる。
 下を見るともうそれこそ千靭の谷と言った様な、断崖絶壁と言った様な山を登っておる。それを登り終わらせて頂いたら、頂上の所に広ぉいまた所謂美田みたいな、もうそれこそ沢山な稲が実り、沢山な見事なお野菜が、沢山な果物が実っておると言う様な、もう広々とした所へ出たと、こういうお知らせである。だから成程信心は無くても、立派な家に住んでいる人もおりゃ、儲け出していきよる人もあるし、様々幸せそのもののようにしておる人がありますけれども、それは山を登らない下の方のことである。
 でまあ信心しておかげを受けると言う事は、信心という普通で言うたらとても私だん出来ん、そげなこと出来ん。と言うのだけれど実際やってみると、誰でも出来るその気になれば。と言うのが、この絶壁をよじ登るのではないと。ちゃんと手がかりがあり、足がかりがあって、登って行けれる道がつくのである。その上にビデオを見たら、所謂おかげの受け場というものを、その信心の上に、向こうに頂くということがある。
 これはお徳を受けて儲けだし、お徳を受けて健康になり、お徳を受けて家庭が円満になるという世界なんだ。いわゆる本当の意味においてのおかげの世界に、私どもが出るということがという御理解を頂きましたですね。そのことだと、そういう意味のことだと思うんです、高田実という事は。高度なおかげの受け場というものを頂いて、そこに受けるところのおかげであります。
 私が今日頂いたお夢は、ご理解の中に十里の道を九里半登っても、油断はできんぞと。登って、向こうへ下りたら安心じゃという意味のご理解がございましょう。ように私はねもう山を登ってそして、下りてきておるというお夢であった。向こうへ。だからこちらから登って向こうへ下りてる。それが急な山だけれども、あの山なみハイウエイなんかにまいると、高い山にまいるとズーッとこう、自動車で登っていけるように、道があるでしょう。そう言う様な道を、しかも自転車で下りてきておるのです。
 それが少し下り坂ですから、一つも、踏むことは要らん。と言うてブレーキをかけることも要らんと言う様な自転車に乗ってきておるのです。そしてその自転車に乗って、段々下ってきておる途中に、様々なものを見たり聞いたりして、下りてきている。私はこの自転車と言う事が、どう言う事であろうかと思うてみた。自転車と言う事は自分で踏むという車ですね。けれども私の場合は、自転車だけれども踏んでいない。
 下り坂だからジーッと、もうスイスイと下る。と言うて目が回うごと急いで下ると言った様な事もない。なだらかな坂ですから、クルクル回って来ておる。だから信心はね、私は仏教的に言う自力とか他力というのは、もっと意味の深いことでしょうけれども、私が言う自力私が言う他力はね、いわゆる自分自身が、本気でその気になって信心修行をすると言う事だ。そして後から考えてみるとです。
 一ヶ月なら一ヶ月を、寒修行にそれこそ、遠方からお参りしてみえた。良う出来たとこう思う。成程自分が一生懸命踏ん張った頑張った。眠い時には起こして貰うて参って来た。だからそれはいうならば、自分の奮発心からです。自力です言うなら。そして一月を参り終わらせて頂いて、やっぱ神様のおかげで、お参りが出来たという実感が涌いてくると思うんです。私が言う自力体ちゃそういう意味なんです。「本気でお参りをしよう。」と思う心が自力なんだ。「本気で修行をしよう。」と言うのが自力なんだ。
 そして修行をし終わって思わせて頂く事は、はぁ神様のおかげを頂かなければ、出来ることではなかったなと。ここに他力を感じるわけなんです。その二つが徳なんだ。一つほんならおかげを頂くに致しましてもです。一生懸命よう参った良う頑張った。是は自力なんです。そこに神様の言わば他力とも、夢にも思わなかったというおかげが頂かれる。それを他力言わば自力他力というのを、私はそういう風に頂いておる。
 ですからそういう意味においての、自転車と言う事はそういう意味だなと思うた。と言うて踏むことは要らん。神様のおかげで下っている。途中でえらい大きな柿の木がある。その柿の木の上に誰かが登っておる。どうもそれが私の身内の者らしい。子供達か親戚の者か、従兄弟たちか分からんという感じだけれども。柿が一杯葉がしこっとる。柿の葉でね、顔が分からんのです。下の方に二人の刑事さんが立っておる。その刑事さんをやってるのが、あの天知茂というかね、という俳優がおりましょう。
 天を知ると書いとる。あの人ともう一人名前は知りませんけれども、その二人が刑事さんになって、上の方に向かってから、そのまぁ逃げて登ってるらしい。柿の木のとっぺんに登っとる。そして、りてきなさいち。私も一遍、あんたが通った様な所を通って、改心して刑事になとるとじゃけん、あんたが気持ちは良う分かる。そしてあんたの方はね、もうそげんせんでん、これだけ親戚中に、有力な人達があるからね。詫びれば許してやりたいと言うのだから。
 早う下りてきてから、楽になりなさいと言うて、もう懇々と柿の木の上を向いて、その二人の刑事さんが言うておる所であった。途中には私の母方の叔父とか、私の父方の伯母とか、従兄弟たち亡くなった人たちばっかりがです。もうこんな幸せがあろうか。というような表情で年寄りが孫を見たり、子供を見たり、若い者はせっせと炊事の準備をしたり、今日はその親戚の御霊さんたちが全部集まって、会食でもされるといったような感じ。私が十五分間の間に頂いたお夢なんですよ。
 それが雰囲気を、言葉で表し得ないことが残念ですけれどもね。そして下りた所が、丁度母の里の麦生のような感じです。山の麓にございます。そこにはもう現在は、家も屋敷もございませんけれども、その家屋敷が残っておって、それがもう実に広々とした家屋敷があって、そこに立派な新築が出来ておる。ほぉこれは随分かかったろう。それは立派な新築である。一段高い所に廊下伝いに、客殿風のいわゆる客間が出来ておる。母屋がまぁだ半分ぐらい、ようやく出来ておるという感じ。
 外には野外で食事が出来るような設備も、こう出来ておる。そこで例えば伯母とか叔父とか、母方又は父の方の方、又は私の方の嫁の小西の方の方。もう私に縁のある親戚の人たちの御霊様たちが、嬉々として休んでおる人があり、話し合いをしている人があり、もう一生懸命炊事の準備をしている人がある。そこを私が上から、スイスイと自転車で下りてきて、その人たちのところをこうグルグル回っておる。皆が私を合掌しておかげを頂いた。おかげを頂いたと言っておる。そんなお夢であった。
 庭の隅の方に竹の子が、こう一杯立っておる。私の思いにはははぁこの辺に、竹林が一つ欲しいなぁと思いよる所に竹の子が立っちょる、こりゃまぁどうした素晴らしいことじゃろかと。それが元あっこは竹薮じゃった所を開墾したっちゃから、やっぱ芽が出たとじゃろうと言うてもう二、三日おきに竹の子がこう、ぞっくり出ておる所。ははぁそこには竹林が出来るな。石はもう掘り出したばっかりのつが一杯置いてある。未だ庭床が出来ていないという感じ。
 そういうおかげがです、そういう例えて言うならば、私の根であるところの、先祖の御霊様たちが、そのように助かっておる。言うならば私の信心である。しかも中には悪いことをした奴がおって、柿の木に登って逃げとるが、そうじゃないかと思う。まぁ柿の木ということにも、意味が大変あるようですけれども。まあ省きますけどね。顔が見えない柿の木の葉で。けれども下の刑事さんたちが、それこそ天地のことは知り抜いておる刑事さんたちが、下りてきなさい。
 詫びれば許してやる。という親心であり、私もあんたの様な所を一遍通って刑事になっとるとじゃから。欲はあるというのは未だあるけれども、未だ何やら完備しておるというわけでもないけれどもです。そういうおかげの中に、そういう上がおかげを頂いてきた。先祖がおかげを頂いてきておる。そういう一つの表れが、現在の合楽の形の上で言うておるところのおかげであると私は思います。
 皆さん私どもがどうぞ、商売が繁盛いたしますように。ただ健康になりますように。と、私どもが頂くおかげの世界で、そういう家までも助かるというはずはありません。信心の徳というものは、あの世にも持っていかれ、この世にも残しておけれる。それを本当に、私どもが実証させて頂くと言う事が信心なんです。ですから、おかげの世界から信心の世界。おかげを頂くというのではなくて、信心を頂く。その信心におかげが伴うてくるというおかげ。それでも尚且つ、最近言われておる五つの願い。
 これはもう下の段の田畑で現れてくるおかげではなくて、もうここよじ登った上に出来るところのおかげ。これは一反よりも二反、二反よりも三反、三反よりも一町位のもっと大きく広く、ここに実るおかげを頂きたいというのが、現在の合楽である。それもただ私が楽をしたいから。私が金持ちになりたいから、願っておるのではない。私が楽をしたいからではない。真実神様にお喜び頂けれる、神願成就の事の為に、奉仕したいという一念が、五つの願いになって表れてくると言う事なんです。
 私は取分けこの一月は、そう言う事をそういう信心を中心に、皆さんに聞いて頂いたと思うのです。先ず形よりも自分の根が助からにゃ、心が助からなければ。これは信心をもってしなければ、自分の心は助からない。自分の心が助かってくるとです。今度は家の根が助かってくる。先祖である。そこから生まれて来る所のおかげの世界というのが、いわゆる高田実と言うのではなかろうか。
 今日は高田実。高度な高度なと言ったら、ですけれども信心しておかげを頂くという世界である。言うならば今日のご理解で言うと、神も喜び金光大神も喜び、氏子をもの喜びという、三者一つになって喜び合えれる世界なんである。ただ自分のことだけを願って、あぁおかげを頂きました。病気が治りました。と言うのはその時だけは自分は嬉しいとか有難いでしょうけれども。それは金光大神が喜ばれる。神が喜ばれる。と言う様なおかげじゃないですよね。信心を頂くと言う事。信心を頂く。
 修行の味わいが分かる。修行の有難さ尊さが分からせて貰う。この間の修行には、この事が分からせて頂きました。と言う様な信心になってきたら、この信心が愈々成長して行く事に精進しなければおられないのが、信心ではなかろうか。寒修行でおかげを頂いたおかげをです。ただおかげだけであったら。又それは必ず落とす時期が来る。おかげを落としたんでは神も喜ばんと。いや神様が悲しまれる。信心を頂く。
 その信心とは成程、その真似は出来んというごとあるけれども。自分自身が本気でその気になればです。ちゃんと登れそうにもない様な山にです、手がかりもありゃ足がかりもあって、登れるように出来ておるのが信心の道である。そしてこの大きな言うならば、おかげの場というものを頂いて。そしてそこから下りて行ってみたら、私の根先祖までも、この様に見事に助かっておったという世界。
 しかも自転車でスイスイと下っておる。と言う事は自力と他力が一つになって、金光様のご信心はお徳が成就していくものである。ただもう家から拝みよります。位な事でお徳の頂けるはずは、絶対に無いと言う事。ここの所に私共が焦点を置いた信心に、向きが変えられたというおかげをです、もう寒修行に皆さんが今日は初めてという方もありましょう。けどもそこの所にですそこん所が分かった。又そこん所を分かる為に是からの精進が積まれてくると言う様な、心機一転のおかげを受ける事になればです。
 愈々神も喜び金光大神も喜び、氏子もの喜びと言う様な、おかげになってくるのであります。どうぞこの一月間の寒修行をです。只寒修行中におかげを受けたというだけではなくて。自分の胸の中を一つ、一問一答してみてどれだけ自分の、血に肉になったであろうかと。はぁ話を聞いていると実際なってないなと思うたら、今日からでも良いから一つ向きを変えた、信心に向きを変えた姿勢を取らせて頂くと言う事になれば、それでも有難い事になります。
 今月特に寒修行中には、取分け私は大改まりと言う事。傍を楽させると言う事。難儀な事是はもう絶対、そのままが修行であると言う事。と言った様な事をまぁ言うならば、噛み砕くように聞いて頂いたのですけれども。その一言でも言うならばもう半言でも、それなりに頂いておられるとするなら、寒修行は大変意義のあった寒修行と言う事になります。只おかげを頂いただけであったら、大した事ではないと思うですよね。
   どうぞ。